何でも書くブログ(仮)

緘黙当事者の何でも書くブログ

偏った世界

Twitterとかネットって、随分偏った世界なんだと最近気がついてきた。

 

今まで、主に人生が上手くいってない人(緘黙の人をフォローすることが多かったため)のツイートを見ることのほうが多かった。

ネットで緘黙のことを書いている人はもちろんある程度克服されている人も中にはいるはずなのだが、やはりそういう人は次第に緘黙のことはあまり呟かなくなる傾向になるので、いつまでも緘黙のこと(未だに困っている、辛い、理解してほしいなどと)を呟いているのは緘黙があまり克服できていない人やなんとか頑張って働いてはいるが後遺症がある人に限られてくるわけだ。

 

ここでもやはりすべての緘黙の人たちが理解しあえるなどということは全くなく、現実、大きな隔たりがあるように感じる。

 

私は自分とは違う考え方の人のツイートも興味深く見てしまうほうなので、分け隔てなく緘黙関係の人はなるべくならフォローしたい派なのだが、中には克服できている人を自分とは違う!と思い込み、拒絶するような人もいるような気がする。

 

そういう人は個人的にはものすごく損をしていると思うのだが、それも個人の自由だから知ったことではないし、好きにすればいいと思う。

 

緘黙は何歳からでもきちんとした支援を受けることができるなら回復する見込みがある症状だというのは事実なので、いつまでも緘黙は治らないという世界観で生きている人を見かけると、単純にかわいそうに思えてしまう。

そんなに自分で思い詰めなくてもいいのに…と思ってしまう。

 

適切な支援や治療を受けられることは当たり前ではないし、緘黙の場合は今でもほとんど受けられないことが多いと思うので、多少は仕方ないとはいえ…

自分でネットで調べたり本を読んだりできる時代にそういう情報を自ら得ようとか、そういうこともしないのか?と個人的には呆れてしまう。

(失礼ながら能力的になど、理由があってそれも難しいのかもしれないが)

 

いつまでも周りが理解してくれないから…とウダウダ。

それで一生終わっていいなら好きにすればいいけど、一番たちが悪いのが上手く行っているかのように見える人に嫉妬して攻撃的になる人間だ。

 

たまたま運が良かったから緘黙を克服できたなどと、その本人が自分で言ったり思ったりするのはいいのだが、何も知らない第三者がそんなことを言ったり思ったりするのは本当にあってはならないと思う。

失礼すぎる。

 

克服してきたらしてきたで、また別の壁にぶつかるのが人生だからだ。

(いつまでも同じ場所で悩んでいる人には想像もできないことなのかもしれない)

 

その人たちも元々の症状の重さは自分と同じくらいだったときもあったのかもしれない、もちろん元々軽かった場合もある。

それでも同じ緘黙を経験してきた人には変わりはない。

その人たちから何か学ぶことがあるかもしれない、とは微塵も思わないのだろうか?

 

自分が不安や緊張が強く何もできないからと言って、それを盾に人を羨んだり、傷つけたりすることは本来ならあってはいけないです。

 

病気だから繊細だから、何しても許されるなんて考えていたら、大間違いだ。

 

そこら辺を勘違いしている人が少数ながらいるような気がする。

 

こういう人たちは緘黙があるから人と仲良くなれないのではなく、そのひねくれた性格のせいで誰にも相手にされてないだけだと思う。

 

こんなことをTwitterに書いたらまじで戦争が始まってしまいそうだから、ここにしか書けない。

 

緘黙症状自体が重く辛いだけなら共感できるが、こういう性格がひねくれた被害妄想だけは一丁前のウダウダ文句言ってるだけの人には共感できない。

 

「自分の人生に責任を持てるのは自分だけ」ということにいい歳して気がついていない人間は全員中身が子供だと思う。